仏教の目的と教え 仏教では、自らの意志で決められない生老病死を苦しみ(四苦)と考える。釈尊(釈迦)仏教の目的は、自分の苦しみや悩み・煩悩を修行や智慧の獲得・完成によって、消滅、軽減させることにある。これが大乗仏教になると、自らの悟りを求めるだけでなく、人々を救済し、利益を与えることが要請される(自利利他)。 抜苦与楽(慈悲) 仏・菩薩が人々の苦しみを抜いて、福楽を与えること。一般に、楽を与えるのが慈、苦を除くのが悲とされる。 応病与薬 仏が人々の精神的な素質に従って、法を説くのを、医師が病に適応した薬を与えることに喩えたもの。人々の種々の迷い、とりわけ、貪り、怒りなどを病と称した。仏の教えは、人間の苦しみを和らげて、身心に安らぎをもたらす「薬」に喩えられている。 七仏通戒偈 中国唐の時代に、道林禅師と呼ばれる禅僧がいた。この禅僧は、いつも高い木の上に座所を造り、座禅をしていた。その姿が、遠くから見ると、丁度鳥が、木の上に巣を造り、卵を暖めているように見えることから、鳥の巣の禅師(鳥巣禅師)と呼ばれていた。 ある日、日本でも詩人として名高い白楽天(本名は白居易、772-846年)が、当時、杭州の長官としてこの地に就任して来た。白楽天は鳥巣禅師の噂を耳にして、禅師の元へ訪ねて行った。白楽天は、かねてから仏教、特に禅に関心を持っていた。白楽天は木の上の禅師に向かって、 「危ないぞ」と叫んだ。すると禅師は、下にいる白楽天に向かって、 「危ないぞ」といい返した。 「私は大地の上に立っております。なにが危ないのですか?」と尋ねると禅師は、「(お前さんからは)薪を燃やすかのように、煩悩の炎が燃え上っておる。どうして危なくないなどと言えるのか」と言った。 さらに白楽天は尋ねた。 「仏教とは、何を教えるのか?」と。 すると禅師は、 「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」と答えた。 釈尊以前に存在した6人の仏と、釈尊を含む7人の仏(過去七仏)が説いていた教えに七仏通戒偈がある。これは『法句経』『増壱阿含経』などに収録されている。 諸悪莫作(しょあくまくさ) ― もろもろの悪を作すことなく 諸善奉行(しょぜんぶぎょう) ― もろもろの善を行い 自浄其意(じじょうごい) ― 自らの身も心も清らかに保つこと 是諸仏教(ぜしょぶっきょう) ― 是れが諸仏の教えである その言葉を聞いた白楽天は、ケラケラ笑いながら、「そんなことなら、3才の童子でも知っている。」と言った。すると、禅師は、「3才の童子も言ひ得ると雖も、80の老翁も行ふことを得ず。」(3才の子供でも知つているであろうが、80の老人になっても出来るものではない)と言った。ただし、仏教で言う、善悪とは、単に法律や道徳の観点から判断する善悪のことではない。 宗祖伝教大師最澄上人の教え 一隅を照らす 忘己利他 悪事は己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。 伝教大師は、「一目の羅(あみ)、鳥を得ること能わず。一両の宗、何ぞ普く汲むに足らん。」(一つの目の網では鳥を捕まえることが出来ないように、一・二の宗派でどうして全ての人々を救うことが出来ようか。)と述べられ、奈良の六宗に加え、天台宗が公認されるよう上申した。 死を見つめる さて、多くの人にとって、人生の大問題は、『死』であろう。いくら財があっても、権力が有っても、誰も死から逃れることは出来ない。天上界の天人でさえもやがて死が来るのである。この避けがたい死の苦しみや痛み、恐怖や不安や絶望感、更には、つらさや悲しみ等の心の動揺・散乱を如何に制御して安心を得るか、死もまた自分のものであると見詰めていくところから仏教が始まる。 仏教における死の看取り 釈尊は、相互に看取り合うことの意義について、『増壱阿含経』の中で、次のように説いている。 <現代語訳> 仏は僧侶たちに告げた。あなたたちが出家したということは、水と乳がよく混じり合うように、共に同朋であることを意味する。しかし、お互いにあまり看病してこなかった。これから後は、支え合い互いに看病しあうことを願う。もし病の僧侶でありながら、自らの弟子のいない者は、他の比丘たちが交代して、病人を看病せよ。なぜなら、行いを通して至る幸せの中で、病人を看病することに勝るものはないからである。病人を看取るものは、自分自身を看取るのと同じである。 浄土経典の誕生 今から2000年ほど昔、当時の人たちの中にも、死の恐怖におののき、死後の世界に不安を抱いていた権力者や庶民たちがいた。またそれらの人たちは、安穏な死後の世界を希求した。そのような人々の願いに応えるために、浄土経典と言われる経典が創作された。阿弥陀仏や極楽浄土は、仏の慈悲心によって、この世に誕生した。浄土とは、『無量寿経』というお経の中に出てくる「清浄国土」を二字に縮めた言葉で、本来的な意味は汚れていない仏国土(清められた国土)を意味する。阿弥陀は梵語アミタユース(無量寿)、アミターブファ(無量光)の音訳。仏はブッドファ(ブッダ)の音訳で覚者(悟れる者)の意。 極楽とは漢語ではこの上ない楽しみ、理想郷でもあるが、極楽という言葉に対応する語は、インドの原典の中にはない。大翻訳家、鳩摩羅什 (西暦344-413年、一説に350-409年)の造語であると言われている。 余談:昨年亡くなった車椅子の天才科学者、ホーキングは、生前、「神は存在しない」「天国も死後の世界もない」と主張し、熱心なキリスト教徒から、執拗に批判されて来た。彼は天国について、「暗闇を恐れる人間のための架空の世界」と語った。 『阿弥陀経』からの抜粋 この娑婆世界から西方十万億の仏国土を過ぎて一つの世界がある。それを名づけて極楽世界というのである。その国の仏を阿弥陀仏といって、今現に説法をしておられる。 舎利弗よ、彼の国を何故に極楽というのであろうか。それはその国の衆生は何の苦しみもなく、ただ諸々の楽を受けるから極楽というのである。 (中略)舎利弗よ、もし善男子、善女人があって、阿弥陀仏の名号を唱えること、もしくは一日、もしくは二日、もしくは三日、もしくは四日、もしくは五日、もしくは六日、もしくは七日、一心不乱になれば、その人が命の終わる時に臨んで、阿弥陀仏が諸々の聖衆(菩薩方)とともに、その人の前に現われたまう。この人は臨終にあたっても心は転倒することなく、直ちに阿弥陀仏の極楽浄土に往生するのである。 『無量寿経』(弥陀第19願) もしも、私(法蔵菩薩)が仏になる時、あらゆる人々が悟りを求める心を発して、諸々の功徳を積み、至心に私(阿弥陀仏)の国に生まれたいと願うならば、その人の臨終に際して、私は多くの聖者たちに囲まれて、彼の前に現れましょう。それができなければ、私はこの上ない悟りを得ることがないように。 古代貴族の死に方 念仏三昧による極楽往生 −藤原道長 鎌倉時代に法然(1133-1212年)が興した浄土信仰の称名念仏(声を出して阿弥陀仏の名号を唱える)に対して、平安中期から後期、すなわち「末法思想」のはびこる時代の浄土思想は、瞑想によって阿弥陀仏の居る浄土を思い浮かべる「観想念仏」が重要視されていた。 この阿弥陀仏の手と自分の手を、五色の糸でつないで念仏を唱えながら瞑想するのである。 当時の貴族が何より恐れたのは「死の恐怖」であり、臨終する時の苦痛である。摂政だろうが天皇だろうが誰にでもやってくる死。当時の浄土思想の中で特に重要視されていたのは、いかにして安らかに死ねるか?という「臨終正念」であった。 今から約1000年の昔、後一条天皇の万寿4(1027)年12月、極楽浄土を模して建立された法成寺阿弥陀堂で、藤原道長(966-1027年)が死を迎えようとしていた。道長の三人の娘は、一条天皇、三条天皇、後一条天皇と、三代にわたる天皇の后になった。道長は、「藤原時代」とよばれる時代をつくった。当時の太閤、徳は帝王の如くといわれ、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」の意)と詠んだ道長も、老いと病いは、自分の思いのままにはならなかった。 50歳を越えて出家した頃から「風病」(今の風邪ではなく、広義の成人病であり、貴族の多くがかかっていた)に「胸病」(「小右記」)が加わり、足も弱り、眼も見えない状態(一説には白内障)になってきていた。(岸元史明「王朝史の証言」) 11月24日には、背中の腫れ物が胸まで広がり、12月1日にはその腫れ物を針でつぶした(「小右記」)。さらに、消化器系の病気が致命的になってきていたようである。 このような状態になった段階での道長の言動は、「栄花物語」に次のように記されている。先ず長子の頼道に対して、祈祷や読経、さらにそばへ来ることまで断り、念仏だけを要求していた。道長は、自分の終焉を阿弥陀堂の念誦の室で迎えたいというのが、年来の希望であり、その部屋には高い屏風を引き回し、そこには人を近づけないようにした。死期を覚った道長は、阿弥陀仏の前に、病床を設け、沐浴のあと浄衣をまとい、九体の阿弥陀如来の手から五色の糸を自分の手に結び、北枕で西向きに寝て、最後まで念仏を唱えながら、62歳の生涯を閉じた。 恵心僧都源信の「臨終の行儀」 平安時代、多くの貴族たちは、恵心僧都源信(942-1017年)の『往生要集』(985)の「臨終の行儀」に記された方法に従って往生した。(角田文衛「平安の春」) 日本浄土教における死の看取り 『往生要集』臨終行儀と『二十五三昧会』 日本では、5世紀頃の中国浄土教の看病法を受け継ぎ、多くの仏教徒が、極楽浄土への往生を願った。日本において仏教における死の看取りが確立されるのは、源信の『往生要集』、及びそれを教学的基盤として生まれた比叡山横川の首楞厳院における念仏グループ『二十五三昧会』(986)である。 『往生要集』は、寛和元年(985)に書かれた、念仏信仰の書である。これにより、地獄・極楽のイメージが日本人の心に定着したといわれる。 源信は『往生要集』の中で、中国浄土教における臨終行儀の具体的な実践について、取りあげている。その「行儀」についてみると 、祇園精舎の西北の角、日の沈む処に、「無常院」という病人を世話する施設が建てられている。 先ず病人は、いつまでも残る世俗への愛着を断つために、金箔の阿弥陀仏の像を安置した無常院の建物に連れてこられる。無常院には、来る者は多いが、戻って行く者は一人か二人である。その名は、日没の夕日を見ながら、暮れていく自己の無常さについて思いを深めることになぞらえている。病人はここで仏法を専心に瞑想する。そして面を西方に向けた阿弥陀仏の左手につながれた五色の長い幡(布)の一方を病人が握り、仏に従って一緒に極楽へ往生しようと願うのである。看取る者は、香を焚き、散華して部屋を荘厳する。また病人が大小便・嘔吐・唾などをもよおした時は、その都度、それを取り除いてあげよとしている。 源信自身が、五色の糸を握って臨終を迎えたと伝えられている(藤原道長も同様)。平安時代から鎌倉時代にかけて、多くの山越阿弥陀図が、源信の『往生要集』に学び、死にゆく人のために描かれた。『往生要集』には、中国浄土教を大成した人物、善導大師(597-681年)の『観念法門』「入道場及び看病人法用」によりながら、病人の看取り方について、次のように明かしている。 ・行者は病気の時も、そうでない時も、命終の時にはもっぱら念仏三昧によること。 ・面を西に向けて阿弥陀仏をもっぱら観想し、心と口とを相応させて、念仏の声が絶えることのないようにし、往生への想いと、蓮華の臺に乗った浄土の菩薩たちが来迎引摂する想いをなすこと。 ・病人が罪の相や地獄の相にさいなまれる時は、そばにいる看病人が、その人のためにともに念仏を称えて懺悔し、その人の罪を浄化するようにせよ。罪が浄化したら、蓮臺に乗った仏、聖聚がまさに現前して来るであろう。 次に、「勧念」についてみると、看取る者が、仲間のために病床を訪ね、念仏を勧めることの意義を明かしている。その十番目には、次のように記されている。 <現代語訳> 仏の子よ、いよいよ人生最期の時である。臨終の一念は、百年の業に勝っている。この時を過ぎたら、生まれて往く処が決定する。今はまさしくその時である。どうか一心に仏を念じ、心決定して、西方極楽の妙なる浄土の八功徳池の七宝蓮華の臺の上に往生して下さい。 朝早く見かけた人々の中にも、夕方会うことができない人がいる。夕方見かけた人々の中にも、朝早く会うことができない人がいる。(ジャータカ:本生譚) 馬でいくことも、車で行くことも、二人で行くことも、三人で行くこともできる。だが、最後の一歩は、自分ひとりで歩かなくてはならない。(ゲーテ) 極楽浄土のめでたさは 一つもあだなることぞなき 吹く風 立つ波 鳥も皆 妙なる法とぞ唱うなる (梁塵秘抄) 極楽を願うおもいの香の烟り 迎えの雲とやがてなるらむ (恵心僧都) 仏教からみた死 バングラディシュの仏教では、僧侶が重い病気の人や悩みを持っている人の家に行って、説法をすることがよくあるという。病気の人を前にして、如何に人間は死ぬべきかを説くというのである。 (65才の肺の病気を患った女性の例) この女性は、長年肺の病気を患って寝たきりになっている。家は裕福ではなく、薬は買えない。親族が彼女のために、寺から長老を呼んで説法をお願いした。 僧侶が説法の題材に選んだのは、ブッダの最後の旅を記した『大般涅槃経』であった。 「この世に生まれたら、死ぬのが定めです。生まれてから死ぬまでの間が、私たちに与えられた人生です。ブッダは死とは何かを考えました。死を見つめ、その答えを見つけるために世俗を離れました。私たちも死に意味を与えることができれば、生きていく苦しみにも耐えられるのです。『人はこの世に生まれたら、必ず死ぬ』とブッダが言われたのは、誰もが死を避けられず、この世に、死の手から逃れられる場所はどこにもない、ということです。・・・ 今ここにいる女性は、随分前から病気で苦しんでいます。私たちが彼女にしてあげられることは、彼女にこの真理を聞かせてあげることです。そして、周りにいる人々は、今日、この人がしてきたこれまでの善行を思い起して、皆で知り、記憶に留めることです。その人の善行を思い留めると、悪い思い出は、消えていくでしょう。・・・今日、私たちがここに集まったのは、彼女を力づけ、死への旅が安らぎに満ちたものとなるようにするためです」 この女性は、確かにもう長くないということは、私たちも感じたが、僧侶が生きている人に向かっていきなり切り出したのには、驚いた。しかし、これがブッダの教えの核心である。 僧侶は、葬式や儀式のためだけにあるのではなく、生きている人々のためにあり、生きている人々に話しかける。 ベナレスの死を待つ人の家 インドを流れる大河ガンジス中流のまちベナレス(ヴァーラーナシー)。このまちはヒンドゥー教の聖地として、インド各地からの巡礼で溢れている。この河のほとりで火葬されれば、魂は天へ運ばれ、苦しみのない世界で生まれ変わることができると信じられている。 ベナレスには死者だけではなく、生きている人々が死を待つためにやってくる。 「死を待つ家」で暮らす老婆は、ひたすらクリシュナ神の名を唱え続けている。彼女は「神様が私をここに呼んだのです。時が来れば、神様が私をこの世から連れて往きます。私は一人ではありません。神様がいつも一緒にいるから寂しくありません」 また別の家には、85才の老人を訪ねた。彼のいる二階の窓からは、火葬の薪置き場が見渡せる。窓の下の路地を火葬場に向かう遺体が、ひっきりなしに運ばれていく。 「私は解脱を得るためにここに来ました。人が死ぬのを見るのは、全く怖くありません。私は人並みの人生を送ってきて、残りの人生は、神に捧げようと思っています。死ぬということは、古い服を脱いで、新しい服を着るようなものです。変わるのは、人間の肉体だけです。霊魂は不滅なのです。・・・いつ死んでもいいと思っています。」
恵心僧都源信『念仏法語』 現代語訳 私たちがこうして地獄や餓鬼や畜生の世界に堕ちることなく、人間に生まれて来たということは、それだけで大きな喜びです。地位も名誉もないかも知れません。でも、一生涯ムチ打たれ労働を強いられる畜生の人生よりはましなはずです。 家が貧しく生活が苦しいかも知れません。でも、つねに欲望をむき出しで互いに傷つけ合い、飢えと渇きにもがき苦しむ餓鬼の世界ほどではありません。 人生が思い通りにならないと嘆くかも知れません。でも、苦痛ばかりで逃げ場すらない地獄の世界とは比べようもないほど幸せなはずです。 生きるのがつらいと思うのなら、それはこの世界よりもっと素晴らしい浄土に生まれようと願う良い機会です。こんな自分は何の価値もないどうしようもない存在と思うのなら、それは悟りという本当の幸せに目を向ける絶好のチャンスです。だからこそ、人間に生まれたことを喜ぶべきなのです。 たとえ信ずる心は浅くても、すべての人を救おうと誓った阿弥陀様の願いは、底知れぬほど深いのです。頼みさえすれば、きっと浄土に往生できるのです。 念仏を唱えるのは気が進まないと思うかも知れませんが、唱えれば臨終の時に阿弥陀様が必ずお迎えに来てくださります。その功徳は莫大なものです。ですから、阿弥陀様の本願にかなうことを大いに喜ぶべきなのです。 また、妄念(迷いの心)というのは、もともと私たち凡夫に具わったものなのです。私たちの心は妄念以外の何物でもありません。死を迎えるその時まで、妄念だらけの自分の心に目を背けず、しっかりとそれを自覚してひたすら念仏すれば、きっと阿弥陀様が迎えに来て下さり、共に蓮華の臺に坐すことができるでしょう。その時こそ、妄念をひるがえし、悟りの心が得られるのです。 妄念のままでいいから念仏を唱えましょう。泥の中から出た蓮華が泥に汚されず、美しく清らかな花を咲かせるように、浄土への往生は疑いようもありません。 ですから、妄念があるからといって、決して自分を嫌うことはありません。むしろ、阿弥陀様を信じる心が浅いことを嘆いて、常に志を高くもって、「南無阿弥陀仏」と唱えようではありませんか。 |
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